2021.10.15

くろば亭 山田家の系譜ーオヤジのまぐろー前編

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くろば亭 山田家の系譜ーオヤジのまぐろー前編

三浦三崎のくろば亭。みさきまぐろきっぷを⼿にした観光客がこぞって訪れる三崎地⿂とまぐろ料理の専⾨店だ。三浦に数あるまぐろ料理店の中でもここが唯⼀無⼆の存在感を誇っているのは、店先のテントに⼒強い筆で記された「無国籍料理200種」の⽂字。そして、定番の⾚⾝やトロだけでなく、まぐろの胃袋を始めとする珍しい部位の数々を提供していること。今や地元住⺠でさえ知らない⼈も多くなったというそのルーツを⼤正昭和、平成、そして令和へと連なる家族の系譜とともに探ります。

夜明け前の毘沙⾨湾で定置網漁を終えた丸共丸の⽔揚げが始まっていた。午前五時を過ぎたばかりの三崎⽔産物地⽅卸売市場。暁闇の岸壁で揚がってくる⿂に⽬を光らせているのは、⼭⽥拓哉、四⼗⼋歳。くろば亭の⼆代⽬だ。

「オヤジと違って、⾃分は⾜で稼ぐタイプなんです」

周囲には他店の料理⼈どころか、仲買⼈の姿すらない。いるのはせいぜい端物狙いの海⿃だけ。競りが始まるのはまだ⼆時間以上後だ。

「オヤジは多才じゃないですか。テレビ出たり、仏像彫ったり。迫⼒もあるし、何たって絵になる。それに⽐べて⾃分は地味ですし、多才でもないですから。だから、こうやって⾜で稼ぐんです」

ソウダガツオ、イナダ、サバ、アジ、イサキ。種類を⾒ているのかと思いきや、⾒ていたのは⼀匹⼀匹のコンディションだ。

「たとえば同じイナダでも⼀匹⼀匹違いますし、船によって、漁法によってもコンディションが変わってくるんです」

⽔揚げされる膨⼤な⿂の中からその⽇、客に提供する⼀匹を⾒極め、競りが始まる前に⽬をつけておくのが、拓哉の流儀だ。

「三崎は東京湾と相模湾、両⽅の⿂が揚がって来ますからね、三浦半島の港の中でも恵まれてますよ」

城ヶ島が⾃然の防波堤となっている三崎は平安時代から利⽤されてきた天然の良港だ。⼤正⼗年には埋め⽴てが開始され、漁港機能が⼤幅に拡⼤された。本港を始め、花暮・向ヶ崎・⻄浜・⽥中・通り⽮などの地区が埋め⽴てによって⽣まれた。その⼀⾓で五⼗年に渡って店を営んで来たくろば亭のルーツは、さらに⼤正時代の徳島県にまで遡る。

⼤正⼗⼀年、徳島で農家の次男として⽣まれた⼭⽥重太郎。拓哉にとって祖⽗にあたる⼈物だ。⽊材運搬船の飯炊きとして船の世界に⼊り、若⼲⼗⼋歳で船⻑に。そんな順⾵満帆の船出に待ったをかけたのが戦争だった。昭和⼗七年には海軍⽔兵を命じられ、佐世保へ。⼆⼗歳だった。台湾、フィリピン、ボルネオ。戦禍を⽣き延びた彼は海軍学校で学んだ最新の船舶航海技術、計器の使い⽅を終戦後の⽣きる糧とすることになる。

「国⺠は飢餓に苦しんでいる。漁業会社を作り、⾷料を供給したい。協⼒してくれ」

海軍で世話になった⼤佐に頼まれた重太郎は⼆⼗三歳のときに沿岸漁船の漁師として操業を開始。後に伝⼿を頼って渡ったのが、まぐろの漁業基地としてその名を知られていた三崎だった。江⼾時代から続く住吉漁業に⼊社した重太郎は三崎港を拠点に再び遠洋へと乗り出していく。

「第⼆次世界⼤戦で闇から⾶んでくる弾に⽇本は負けた。当時の電探、レーダー。科学の⼒に捻じ伏せられるのを⽬の当たりにした私はハイテク機器を⼗分に活⽤できないと我が国の漁業も負ける。そんな思いに駆られて、⾃然を観察することと漁労機器を使いこなすことで、漁業の現場を⽣きてきた」

後に著書『私と海とまぐろの記録』にもそうしたためた通り、重太郎は最新の計器で⽔深や海底の地形、⽔温など⽬に⾒えない海の姿を掌握することに務めた。しかし、それ以上に重視していたのは「漁業は⿂の癖を利⽤した産業である」という⾔葉通り、⿂の習性を知ることだった。

その⼆つを駆使して⿂礁、すなわち⿂の集まる場所を⾒つける術を体得した重太郎は誰も操業していない海域で次々とあたらしい漁場を開拓。インド洋で毎年七、⼋千万円の⾚字を出していた第三住吉丸の⾚字を瞬く間に解消するという偉業を為し遂げる。

しかし、当時のまぐろはかつおに⽐べるとまだまだ⼤型⿂の主流ではなかった。そもそも⽣臭くて傷みやすいまぐろを⽇本⼈が⾷べるようになったのは江⼾時代のこと。漬けまぐろの開発により庶⺠の⾷べ物として広まったものの、⾷べていたのは⾚⾝のみ。脂っこいトロは「猫も喰わない」と捨てられるか、豚の餌になっていた。しかも当時の漁船の冷蔵技術はマイナス⼆⼗五度が限界値。外海で釣ったまぐろが三崎に持ち帰られる頃には⾝は褐⾊に変わり果て、到底刺⾝でなど⾷べられるものではなかった。

だが、七⼗年が経った今は違う。船上で急速冷凍されたまぐろは新鮮さを保ったまま遠路はるばる三崎へと運ばれてくる。それだけではない。三崎に着いた後も新鮮なまま保管される。午前六時、拓哉は零下四⼗度の世界にいた。⽔揚げの合間を縫って、市場内に借りた冷蔵倉庫からその⽇使う分のまぐろの部位を取り出すのだ。今⽇は頭⼆つと⾝を三つ。それだけでも⼩さな飲⾷店の量ではない。

「値段も質も本当にピンキリですね。同じ種類のまぐろでも⼀本⼀本が本当に違うんです」

くろば亭のまぐろはすべて拓哉⾃⾝が⽬利きし、⼀本買いしている。尾の⾝を⾒て状態や品質、脂、解体したときにどう化けるかを判断する。飲⾷店によってはその難しい⽬利きを「まぐろ屋」と呼ばれる仲買⼈に完全に任せているところもある。

「自分の気に入らないまぐろを、なあなあの付き合いで使う、みたいなやりとりをするのも嫌だったし、それをお客さんに出すのはもっとしんどい。仮にそのまぐろがあまり良く無かったとしても⾃分の選んだものだったら納得できると思うんです。お客さんに出す重みが違う。だから⽬利きの専⾨職であるまぐろ屋と切磋琢磨しながらも最終的には⾃分が選んだものを使いたいんです」

拓哉は凍ったままのまぐろの部位を荷台に乗せると昇り始めたばかりの朝の眩しさに向かって軽トラックで⾛り出した。誰もいない三崎の下町通りを抜けてくろば亭へ。零下四⼗度の世界で眠っていたまぐろは解凍された途端、⽬に映る景⾊が船の上でないことに驚くかもしれない。もっともそれが⾈盛りの上だったら勘違いしたままなのかもしれないなんて冗談はさておき、そんな瞬間移動のような離れ業が可能になったのは漁船の冷凍冷蔵技術がマイナス五⼗五度にまで進歩した⼀九六⼗年代のこと。同時に⽇本⼈の⾷⽣活が洋⾵化し、脂っこい⾁を⾷すようになったことで「猫も喰わない」と⾔われていたトロは瞬く間に⾼級品となった。

潮⽬を⾒極める術を⼼得ていた重太郎はそういった追い⾵も確実に感じていたのだろう。漁労⻑となった彼は⼤⻄洋、地中海、メキシコ沖、ブラジル沖、アフリカはケープタウン沖など新たな漁場を次々に開拓。⽂字通り七つの海を股に掛け、いつも⼤漁満船で三崎へと帰港した。

「同じ漁場で漁をしていても、⼭⽥さんの船だけ他の船の倍以上のまぐろを⽔揚げしてるんだ」

⼭⽥重太郎の名は『まぐろ漁の名⼈』『⽇本⼀の漁労⻑』として国内のまぐろ漁関係者で知らない者はいない存在となった。半年の航海で⼗億円という巨額の⽔揚げ⾼を記録したこともあった。⽶国の会社から三千万円でスカウトが来たこともあった。⼭⽥家には「⼀度の航海で家が建つ」と⾔われている重太郎の船に乗りたいという若者の履歴書がいつも堆く積まれていた。いつしか誰もが重太郎のことをこう呼んでいた。

『まぐろの神様』

その神様の背中をずっと⾒つめてきた男がいた。
⼭⽥芳央。重太郎の息⼦であり、拓哉の⽗だ。

「じいちゃんも朝から晩までまぐろのことばっかり考えてましたね」

午前六時⼗五分。店先の桶に張った真⽔で冷凍まぐろを解凍しながら拓哉が遠い⽬をした。

「船に乗っていたのはオレが⼩学⽣くらいまでなんですけど、船を下りた後もごはん⾷べるのは腹減ったときじゃないんです。三⾷決まった時間に時計⾒て、この時間だからこのぐらいの量ってのを⾷べるんです。毎⽇三万歩歩いてたし、⾃分⾃⾝を徹底的に管理してたんです。戦略家だったんです。将棋も⼤好きだったし」

⼆匹の町猫が遠巻きにまぐろを⾒つめていた。「うちの常連さんです」と拓哉が笑う。おいおい、トロは猫も喰わないんじゃなかったのか。いや、⻑年くろば亭に寄り添って⽣きるうちに⾆の好みまで変えられたのか。

「でも、おやじも負けてなかったですよ。まぐろに対する追求⼼とか、あとは粘り強さとか根性とかお客さんが⼊らないときにどうするかとか。そういう背中をいつも⾒せて貰っていました。負けず嫌いなんですよ、おやじは」

⼀九六⼋年、三崎港のまぐろ⽔揚げ⾼はついに⽇本⼀へと昇り詰めた。その三年後の⼀九七⼀年、三崎に⼀軒のレストランが開業する。まぐろの神様・⼭⽥重太郎の息⼦芳央が創業したくろば亭の前⾝となる店だ。店が成功した平成期には「まぐろおやじ」としてメディアにも進出。現在は店を息⼦拓哉に任せ、「まぐろ⼯房」で毎⽇新メニューの研究開発に没頭している芳央は⽗・重太郎との関係をこう振り返る。

「オヤジはオレに対してライバル⼼がすごかったね。弟が『お兄ちゃんまたテレビ出てるよ』と教えても『そんなもんは知らん』みたいな。オヤジはオヤジでテレビに結構出てたけど、オレのことは⼀切⾔わないんだ。オレの⽅は「オヤジはまぐろの神様で」とか⾔ってたのにオヤジは本とかにもくろば亭のことは⼀切書かなかった。店始めるときも⼀円だって貰ってない」

芳央が料理の道を志したきっかけのひとつに幼い⽇の⽗とのこんなエピソードがある。

「四歳のとき徳島から三崎までまぐろ船で来たんだけど、船酔いしてさ。オヤジに『こいつは船乗りにはいらねえや』って⾔われたんだ。で、オレはオレなりに⽣きようって。喰うのが好きだから食い物屋になれば喰うのにも困らない、うまいもんは何でも作れる店にしてえってさ、和洋中華からエスニック。五、六年の間に⼗五店舗ぐらい転々と回って勉強したんだ」

当時の三崎は年間六千⼈もの漁船乗組員が出漁する国際⽔産都市として世界でもその名を知られていた。今では岸壁に横付けする漁船も⽔揚げ渋滞で沖に向かって縦に列を為していた。⽔産関係の加⼯場が軒を連ね、三崎松⽵、三崎東映などの映画館が三館もあった。地元で「縄船」と呼ばれていたまぐろ船が港に着くと下町は腹巻きに札束を⼊れた船員で溢れる。床屋で⼀年近く伸びっ放しだった髪を切り、銭湯で垢を落とし、三崎館などの料亭で祝宴を開き、スナックで朝まで飲み明かす。通りには鮮やかな着物に⾝を包んだ芸者が闊歩する眠らない街だった。明け⽅になると通りのあちこちで吐瀉物と万札が潮⾵に吹かれていたという。

そんな町で世界中の料理が⾷べられるレストランをオープンした芳央の発想は⾄極真っ当だったといえよう。顧客のほとんどが現在のような観光客ではなく、まぐろ船で⼤⾦を掴んだ船員だったのだ。レストランを営んでいた芳央も程無くして、市場で働いていた妻とクラブやスナックを開業する。芳央の店が開業した⼆年後に⽣まれた拓哉は物⼼ついた時に⾒た三崎のまぐろバブルをこう振り返る。

「まぐろ船が帰って来るときはもうお祭りですよね。⼥将さん(⺟)は船員さん相⼿のスナックをやってたんですけど、出漁のときは花暮岸壁まで⾒送りにいって泣くんですよ。お店に来て貰ったり、外国で買って来たナポレオンなんかをお⼟産に貰ったりしているからなんですけど、よく⾒たら涙流すために⿐⽑抜いてて。何やってんだって思ったら他の⾒送りの⼥の⼈たちもみんな⿐⽑抜いて涙流しているんですよ。なんかすげえなって」

まぐろバブルを象徴するようなエピソードはそれだけじゃない。

「中にはひとりで三⼈くらいの船員とつきあってる⼥の⼈とかいて。同時に帰って来ると困るとか⾔ってましたね。まぐろ船の男の⼈たちって⾦持ってるけど純情なんですよ。基本⼀年に⼀回しか陸に上がらないから」しかし、永遠に続くかに思われたその繁栄も邯鄲の夢。⼀九七三年のオイルショックを境に⽔揚げ⾼は緩やかな減少傾向に⼊った。決定打となったのは⼀九七七年に制定された「⼆百海⾥漁業専管⽔域」。それぞれの国の岸から⼆百海⾥(およそ三百七⼗㎞)の中に外国船が勝⼿に⼊って操業することを禁ずるという国際的な取り決めだ。これによって漁師たちは近海と、どこの国からも離れた公海、または他国の⼆百海⾥以内に⼊漁料を払って操業することを余儀なくされた。三崎に繁栄をもたらしていた遠洋漁業は⼤打撃を受け、その余波は仲買⼈や加⼯場、そして芳央のように彼らを相⼿に商売を営んでいた⼈々にまで及んだ。時同じくして、三崎まぐろの⼤消費地であった東京に⽇本よりも遙かに安い労働⼒で⽔揚げされたまぐろが輸⼊され始めたこともさらなる追い打ちをかけた。

午前六時半過ぎ。まぐろの解凍と競りの開始を待つ間に、拓哉は城ヶ島へと渡った。⼀九六⼗年の完成当時には「東洋⼀の⼤橋」と称された⾚い橋を渡る。⽔揚げ⾼の増加により三崎だけでは対応し切れなくなった⽔産加⼯場を城ヶ島に作る為に架けられたものだ。橋の⻑さも⾼い橋桁も、すべてはその下を航⾏して三崎港に出⼊りする千トン級の遠洋漁船の為に設計された。

「ここには三崎とは違う⿂も揚がるんですよ」

城ヶ島は昔も今も島を拠点にした沿岸漁業と観光業を収益としている。だから漁協の直販所も隣接する市場では、仲買⼈だけでなく、拓哉のような飲⾷業を営む者や⼀般客も⾃由に買い付けることができる。拓哉は⽔槽の中から活きたままのカサゴを⼗匹ほど籠に⼊れると「今⽇はこいつを唐揚げにします」と嬉しそうに笑った。その笑顔にはさきほど三崎の市場で⽔揚げを⾒ていたときのような緊張感はなかった。海⽔をたっぷりと汲んだ荷台のタンクに買ったばかりの活⿂を放すと、そのままリヤカーの転がる波⽌場を海に向かって歩き出す。

「この漁師⼩屋が好きなんですよね」

沿岸に建つ昔ながらの漁師⼩屋を⾒つめ、しみじみと呟く。三崎で⽣まれ育った拓哉にとっては現在のみならず、過去も未来もすべてがこの町にあるのだ。そんな彼が⽗の背中を追い掛けるように料理⼈を志したのは⼗五歳、三崎がまぐろ産業から観光業へと転換し始めていた⼀九⼋⼋年のこと。そこから三⼗年以上が過ぎた今も拓哉が好きだという城ヶ島の⾵景は少しも変わっていないように感じられた。

つづく

青葉 薫この記事を書いた人青葉 薫
横須賀市秋谷在住。全国の農家を旅しながら〈作る人も食べる人もみんなが幸せになる農業〉について考察した著書「畑のうた〜種蒔く旅人〜」が松竹映画「種まく旅人」シリーズ(2021年現在4作目まで公開)に。
自家菜園及び浜辺のゴミをリサイクルして物語を紡ぎ出す「漂着物探偵」としてビーチクリーン活動も行っている。

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