2022.08.30

くろば亭 山田家の系譜ーオヤジのまぐろー後編

  • マグロ
  • エッセイ
  • 三崎港周辺
  • グルメ
  • 三崎口駅
くろば亭 山田家の系譜ーオヤジのまぐろー後編

三浦三崎のくろば亭。みさきまぐろきっぷを⼿にした観光客がこぞって訪れる三崎地⿂とまぐろ料理の専⾨店だ。三浦に数あるまぐろ料理店の中でもここが唯⼀無⼆の存在感を誇っているのは、店先のテントに⼒強い筆で記された「無国籍料理200種」の⽂字。そして、定番の⾚⾝やトロだけでなく、まぐろの胃袋を始めとする珍しい部位の数々を提供していること。今や地元住⺠でさえ知らない⼈も多くなったというそのルーツを⼤正昭和、平成、そして令和へと連なる家族の系譜とともに探ります。

「『後姿の⼈⽣』。若い⼈はこの⾔葉を記憶しておいて欲しい。マグロ延縄漁船が操業中、漁労⻑は常に乗組員の後ろ姿を⾒ている。シャキッとした後姿を⾒せているのはしっかりした⼈間である。後姿を⾒ると、その⼈間の⼼理状態まで分かることがあった。⾯と向かうと笑顔に騙されるが、後姿は正直だ。だから⼈に⾒られている後姿も⼤事にして欲しい」

⼭⽥重太郎著「私と海とまぐろの記録」より

男にとって⽗親とは往往にして背を向けるものだ。そしてときどき振り返るものだ。不安になったとき。⽴ち⽌まったとき。答えが欲しいとき。男は振り返って⽗親の背中を⾒る。何度も何度も。そしてある⽇突然気づくのだ。その背中が哀しいほど⼩さくなっていることに。というのは、あくまでただの⼀般論だ。⽇本⼀のまぐろ漁師である⽗の背中を追い掛け、⽇本⼀のまぐろ料理⼈を⽬指した⽗。その⽗の背中を同じ料理⼈として追い掛けてきた拓哉は次が⾃分の番であることを誰よりも意識しているように思えた。

「オヤジと違って、⾃分は⾜で稼ぐタイプなんです」

その⽇の朝、拓哉が⾃⼰紹介も兼ねて発した⼀⾔⽬がそれだった。彼が最初の取材場所に⽔揚げが始まったばかりの市場を指定してきたのも、そこが彼に⾃分なりの答えをくれた場所だったからなのだろう。朝、⽔揚げされる地⿂を⾒ながら「客に提供する⿂を⾃分で⾒極めるんです」と語った後、拓哉は照れ臭そうにこんなことを付け⾜した。

「⾃分が市場に⾏くようになったきっかけはオヤジなんですよね」

あたらしい⾷材との出会いがある。あたらしい料理のヒントがある。厨房で考えているだけではあたらしい料理は⽣まれて来ない。そのことこそ彼が⽇本⼀のまぐろ料理⼈と認める⽗の背中から感じ取った答えだったのだろう。その芳央が市場で出会ったのはまぐろの尾の⾝だっだが、拓哉が市場で出会ったのは三崎港に⽔揚げされる地⿂だった。

遠くから⾜を運んでくれるお客さんに三崎でしか⾷べられないものを味わって貰いたい。同じ刺⾝でも鮮度の⾼い地⿂は朝獲れたものを三崎で⾷べるのと、⼀旦冷凍されて配送されたものを遠隔地で⾷べるのとではまるで違う。⾝が⽣きている。おいしいまぐろは東京でも⾷べられるが、おいしい地⿂はここでしか⾷べられない。おいしいまぐろ料理がここでしか⾷べられないのと同じように。

拓哉が開拓した新たな⾷材は「まぐろ料理と三崎の地⿂の店」として、今やくろば亭の⼆枚看板にまでなっている。そんな地⿂の仕⼊れにまぐろきっぷで⾷べられる⼈気メニュー「地⿂の刺⾝定⾷」は使われる⿂の仕⼊れから調理までを、店に⼊って四年⽬となる拓哉の息⼦が任されている。夜明け前、拓哉が⽔揚げされる⿂に⽬をつけていたのは、数時間後、それを仲買⼈と⼀緒に買い付ける息⼦に伝えるためだった。

「この量だったらあの⿂は幾らくらいになるみたいな駆け引きとか、仲買⼈さんとのやりとり、そういうのを息⼦に教えているんです。⿂の⽬利きとか勘みたいなものとかも」

拓哉が毎朝訪れていた市場は息⼦にとって⼦どもの頃から連れて来て貰っていた遊び場だったという。⿂の仕⼊れをする⽗の背中を後ろで⾒ていた息⼦は気がつけば同じ道を志していた。

「店には⼊れねえってずっと⾔ってたんですけどね。最初から跡継ぎっていうと勉強しなくなるし。あと観光地の飲⾷店ってみんなが遊んでいるときに遊べないんですよ。⾃分がしてきた苦労を息⼦にさせるのはかわいそうだなって思ってたんですけど」

午前⼋時。競りが始まった⿂市場の活気の中で仲買⼈と真剣なやりとりをしている息⼦の成⻑を⾒守りながら、拓哉が⾔った。⽗親として息⼦を案じる⾔葉を発するたびに男は誰もが⼼の⽚隅でこんな⾵に思う。⾃分の⽗親も同じように思っていたのかもしれないというのも単なる⼀般論だ。それでも、思えるのだ。

芳央も拓哉に対してそう思っていたのかもしれない。そして、まぐろ船で船酔いした芳央に「こいつは船乗りにはいらねえや」と⾔った重太郎も「⾃分と同じ苦労を息⼦にはさせたくない」。そう思っていたのかもしれないと。

⼀⽅、息⼦である彼は⽗・拓哉をどう⾒ているのだろう。

「拓哉さんは店で⼀番がんばってますね。誰よりも早く来て誰よりも遅く帰る。店で⼀番重要な存在ですね。もちろん親⽅もすごいんですけど⼀番教わったのは⽗なので」

彼は⽗のことを拓哉さん、祖⽗のことを親⽅と呼ぶ。

「店に⼊ったばかりの最初の頃は親⽅が回していたんですけど⼯房の仕込みが忙しくなってからは拓哉さんが主軸になって店を回しています」

拓哉が厨房を仕切るようになってから、店は⼗⼀時に開店し、閉店の⼋時までノンストップで営業を続けるようになった。その理由を拓哉はこう話す。

「以前は三時から五時まで休憩だったんですけどやめたんですよ。特にまぐろきっぷが始まってからはお客様がひっきりなしに来て下さるようになったんですね。せっかく東京とか遠くから来て下さるお客様に『今休憩中なんですよ』と⾔いたくないんで、だったら通しでやっちゃおうと」

発案者であるからこそ誰よりも早く店に来て、誰よりも遅く店を出る。

「オヤジもそうですけど創業者の⼈たちってやっぱり根性が違うじゃないですか。お客さんがずっと来ないときに夜中まで粘ったりとか。そういう⾒てるんですよね、⼦どものときに。だからもっともっとがんばんなきゃなって。やっぱお客さんがいないときのあの苦労を知っちゃうとお客さんひとりでも来たら絶対にもう終わりですとは⾔いたくない。たとえお客さんがたったひと組でもちゃんと笑顔で帰したいんですよ」

拓哉が⽗である芳央を尊敬しているように、息⼦もまた⽗である拓哉を尊敬している。

「反発⼼なんて⼀ミリもないですよ。⾔ってることはぜんぶ正しいんで。仕事上の上下関係ではなくて、⽗親と息⼦の視点からしてもあたらしく⾒えるものが多いんです。上下関係って下の⼈が思っても⾔えないことが多いじゃないですか。でもそれを拓哉さんは訊いてくれる」

重太郎に似てシャイな拓哉と違い、聞かれたことに対して饒⾆に答える彼の息⼦には祖⽗にあたる芳央の⾯影を感じた。

午前⼋時半過ぎ。拓哉と息⼦が仕⼊れたばかりの鮮⿂や活⿂を⼊れたかごを両側から挟むように持って波⾶沫をかぶった岸壁を歩いていく。朝の眩しい光が⼆⼈を包んでいく。さきほどまで競りで⾒せていた真剣さと違い、その後ろ姿には息⼦と⽗親が運動会で借り物競⾛をしているような微笑ましさがあった。

店に戻るや否や休む間もなく仕込みが始まる。拓哉は厨房でまぐろ。店の前で地⿂の刺⾝定⾷に使う活⿂を絞めるのは息⼦の役⽬だ。

「⾎が⾶ぶんで外じゃないとできないんです」

まな板の上で⼒強く跳ねる鰍を左⼿で押さえつけ、右⼿で握った包丁を⾸⽬掛けてひと息に振り下ろす。脊髄を割って脳髄液の流れを⽌めるのだ。鰍は驚いて⽬をひん剥いたまま、息の根を⽌める。

「これが死んだ⿂の⽬って奴です」

⼀発で仕留めた鰍を⼿早く真⽔に⼊れ、⾎抜きをする。この⼿早さが味を⼤きく左右する。

「これだけはどうしてもやんなきゃいけない仕事ですからね。最初は抵抗ありましたけど、⿂がこんな⼒強いって知りませんでした」

重太郎に始まる海の命をいただくという⼭⽥家の男たちが背負ってきた宿命は曾孫に当たる彼にも受け継がれていた。

「⾼校のときは整体師になろうと思っていたんです。でも、市場に⾏ったりしてたら⿂いいなって、⾼校三年で気持ちが変わっちゃって。拓哉さんはずっと好きなことした⽅がいい。店に⼊るのはまだ早い。⼤学⾏った⽅がいいって⾔ってたんですけど、やるんだったら親⽅も拓哉さんもみんなが最前線に⽴っているうちに仕事憶えたいなって、調理師学校に進んだんです」

物⼼ついたときから祖⽗や⽗の包丁捌きを間近で⾒てきたからだろうか。⼿早く⿂を開いていくその技はとても四年⽬とは思えぬほど⾒事だ。

「刺⾝定⾷は仕⼊れからぜんぶ⾒ているから作ったときに⾃分でも感動するんです。それに市場には市場でしか⼊らない情報がある。海に出て⿂を獲ってきた漁師さんしか知らないこととか、⿂が⽣きて泳いでた海の光景とか。⿂についてお客さんに訊かれたときにそういうことを答えられるのがうれしいんです」

客が知りたいと思う⽫の向こう側のことを伝えることができる料理⼈。それもまた、彼が⽗の背中から学んだことだった。拓哉は地⿂が⽔揚げされる市場だけでなく、営業の合間を縫って、地野菜が育っている三浦の畑にも⾜繁く通う。

「うちは地元の⾷材しか使ってないですからね。くろば亭は三浦の⾷材を⾷べる場所、それを提供する場所とも考えているんで、⾃分は⾷材代理⼈って肩書きを名乗ってるんですけど」

海の上で⿂という命に向き合っている漁師たちと同じように、⼟の上で野菜という命と向き合っている⽣産者の⼒なしに店で料理を出すことはできないことを彼は知っている。

「まあ、畑⾏った帰りに⽢いもの喰ってさぼったりしてるんですけどね」

そう⾔って笑う拓哉が地⿂や地野菜に着⽬し始めたのには実はもうひとつ理由があった。⻑年に渡って三崎の町を⽀えてきたまぐろ産業の衰退だ。

⼀九七三年には三百九九万トンが⽔揚げされていた国内の遠洋漁業は⼆百海⾥⽔域制限の制定により激減。⼆〇⼀四年には三⼗七万トンと、当時の⼗分の⼀にまで落ち込んだ。さらに⼆〇⼀⼀年には⼤⻄洋クロマグロとメバチマグロが。続く⼆〇⼀四年には国産本まぐろと呼ばれている太平洋クロマグロが絶滅危惧種に指定された。

拓哉は三崎のまぐろ⽂化の余命がそう⻑くはないのではないかと感じていた。もしもまぐろが絶滅してしまえばまぐろ料理⼈として⽣きている⽗が⽣きがいを失ってしまうのではないか。その危惧から彼はくろば亭に地⿂という⼆つ⽬の看板を掲げたのだった。

しかしその⼀⽅で、だからこそまぐろにこだわり続けたいという強い想いもあった。

「⾼級なまぐろは東京でも喰えるんですよね。わざわざ東京から⼀時間掛けて来るんだから東京では⾷べられないまぐろ料理、地元の⼈が⾷べていたまぐろ料理を⾷べて貰いたいんです」

拓哉が⼦どもの頃、三崎にまぐろ料理を提供する飲⾷店はなかった。だが、家庭でまぐろを⾷べる⾷⽂化はあった。出荷される⾚⾝やトロではない。船員たちが⼿⼟産として家族に持ち帰るまぐろの内蔵。その代表ともいえるのが、ワタ(胃袋)だった。

「⾃分が⼦どもの頃ですけど、まぐろ船が着くと町中どの家からもまぐろの胃袋を炊き上げる匂いがしていたんです」

まぐろの余命が⻑くないことを感じ始めたのは三崎の町からその匂いが消えた頃からだ。

「そういうのも今はしなくなって、息⼦はもちろん知らないですし」

拓哉はその匂いを知る最後の世代だ。だからこそその郷⼟料理を守りたい。⽗が切り開いて来た伝統と⾰新というくろば亭なりのやり⽅で。そして⽣まれたのがくろば亭の名物料理「まぐろの胃袋のアヒージョ」という拓哉なりの答えだった。

まぐろの神様と⾔われた重太郎も著書『私と海とまぐろの記録』にこう記している。

「昔、海で漁獲した⿂は、氷で冷やして持ち帰り⽔揚げしたので、鮮度が悪くなり、とても内臓まで⾷べることができなかっただろうが、今は、それこそ⽣きたままの状態で急速凍結されるのだから、港で⽔揚げする⿂の⼼臓は、解凍⽅法によっては動き出すのではないかと思うほど鮮度が良い。⿂の内臓の⾷べ⽅の研究も必要ではないか。

いずれにしても、サメに襲われた⿂は、どれも腹から⾷われている。おそらく腹の部分が⼀番美味しいに違いない。ところが⼈間は⾝ばかり⾷べている。サメから⾒ると、⼈間はカスばかり⾷べているようだ」

まぐろの真髄はむしろ内臓料理にこそあるのかもしれない。

午前⼗時半過ぎ。仕込みを終えた拓哉が開店前の路上で芳央と他愛もない話をしていた。わざわざ書くまでもないような、本当に他愛もない話だ。だが、朝の光を浴びて他愛もない話で笑い合っている⽗と息⼦はまるで中学⽣の男の⼦同⼠がふざけ合っているように⾒えた。

⻑年厨房では偉⼤なる親⽅と⼀従業員として接してきたであろうその⼆⼈が。あくまでただの⼀般論に過ぎないのだけれど、拓哉にとって⽗親の背中は今どのくらいの⼤きさに⾒えているのだろう、とふと思った。その芳央がいつも着ているTシャツの背中には『まぐろ⼀筋』という⾃筆の書がプリントされている。

由来は『⼀筋に⽣きていくと真実がみえてくる』という⼭⽥重太郎の⾔葉にある。

『そして結局、私は⼀⽣マグロ釣り⼀筋でやってきた。悔いはない』

⼈⽣を回想録とも⾔える著書の最後をそう締め括った重太郎は⼆〇〇六年にこの世を去った。⼯房で新メニューを開発していた芳央にTシャツの⾔葉の由来を聞いたときのことだ。それまで豪快に笑っていた芳央の表情が⼀転。⽗を看取ったときのことをしみじみと語り出した。

「さすがのオヤジも最期の最期は病院のベッドで⾍の息だったんだけどオレが『オヤジ、まだまだまぐろいるか? 獲れるか?』って声掛けたら、むくっと起き上がって『まだまだおるわ! まぐろはまだまだおる! ⼈間よりも進化しとるわ!』って。オヤジは最期までまぐろ⼀筋だったんだなって」

まぐろはまだまだいる。⼈間よりも進化している。まぐろの神様がそう⾔っているのだから間違いない。芳央は⽗の⾔葉を信じて、⼆〇⼆〇年の今⽇もあたらしいまぐろ料理を考え続けている。

「今考えてるのはまぐろの⿊味噌カレーなんだ。⼋丁味噌と仙台味噌を使ったカレーだよ。うまそうだろ。もう無限⼤だもんね、まぐろは」

午前⼗⼀時。開店前から路上に列を為している観光客たちの前で「まぐろのカブト(頭)の解体ショー」が始まった。カブト焼きで有名なまぐろの頭を客の前で解体。眼⾁、ホホ⾁、喉⾁などを刺⾝のまま提供するのだという。

「お客さんに⾒て貰いながら捌いて、これおいしいんだよって説明するとじゃあ⾷べてみようかってなる。実際おいしいですし、栄養満点なんで」

コロナ禍というピンチの中で拓哉が考案したものだという。

「どんどんやり⽅変えてかないといけないんで」

実演販売のように客に説明しながら包丁を握っているのは、拓哉の息⼦だ。

「オヤジがずっとまぐろのカブト焼きやってるでしょ。⾃分は何年も表に出れない時代があったもんで。⽞⼤には最初っからやらせようって」

そう、拓哉の息⼦の名は⼭⽥⽞太という。「⽞⼈の刃」と書いてくろば亭という屋号から、芳央が⼀⽂字取って付けた名前だ。くろば亭の三代⽬を⼆代⽬の拓哉が⾒守っている。

「たとえまぐろがなくなってもまぐろの町として残したい。⽔揚げがなくなってもまぐろの町として残したいと思ってるんです」

その⼆⼈を創業者の芳央が⾒守っている。

「恵まれてるね、オレは。拓哉もあんなだし、孫もあんなだし、孫娘も⿂捌くのうまいんだよ。今度まぐろ捌かせてやるって約束したんだ」

閻魔⼤王が最後の最後に普通のおじいちゃんとして顔を綻ばせた。

「オレたちみんなまぐろが好きだからよ」

店の厨房には孫娘がカウンターの客に向けて書いた⾔葉が貼られていた。

「世界の美味しいまぐろが集結した場所が三浦三崎です。まぐろは⼀匹⼀匹、そして漁場により、味がまったく違います。くろば亭のまぐろは板さんがなん⼗年もまぐろ市場へ⾏き、選び抜かれたまぐろです」

⽇本のまぐろ消費量は今⽇も世界⼀だ。漁獲量も世界⼀だ。

青葉 薫この記事を書いた人青葉 薫
横須賀市秋谷在住。全国の農家を旅しながら〈作る人も食べる人もみんなが幸せになる農業〉について考察した著書「畑のうた〜種蒔く旅人〜」が松竹映画「種まく旅人」シリーズ(2021年現在4作目まで公開)に。
自家菜園及び浜辺のゴミをリサイクルして物語を紡ぎ出す「漂着物探偵」としてビーチクリーン活動も行っている。

Other Articlesその他のよみものの記事

Page top